日本初の海外団体旅行に旅立った明治女性

東洋英和卒の野村みち 母はすごかった

今からおよそ110年前の明治時代、ひとりの女性が北半球の世界一周の旅に旅立ちました。

女性の名は野村みち。明治時代にサムライ商会を興した野村洋三の妻で、大正15(1926)年から昭和17(1954)年まで横浜YWCAの会長を務めた人物でもあります。

野村みちが生まれたのは、明治8(1875)年。今もつづく箱根・芦之湯の旅館「紀伊國屋」(現・箱根きのくにや旅館)の長女として生まれました

小学校を卒業すると、母方の伯父の家に預けられ、麻布の東洋英和女学院に通い、在学中に洗礼を受けて、キリスト教徒になりました。母ひろは、因習に囚われない英明な人物だったようで、親戚の反対に遭いながら東洋英和の進学を押し切ったのも、当初、世界一周を躊躇していたみちに、「すべてを引き受けるからお行きなさい」と背中を押したのも、母ひろでした。

みちの父は、みちが6歳のときに亡くなっており、ひろは、みちと兄と妹を、今で言うシングルマザーの身で育てたというのですから、まったくもって恐れ入ります。

厳しい面をお持ちの方だったようですが、ひろが嫁いだ紀伊國屋は、明治天皇が箱根登山する際の昼食所であり、伊藤博文や大隈重信といった明治の元老など、やんごとなき方々が集う場所でした。その環境のなかで、従業員はもちろん子どもたちへのしつけも徹底していたようで、ひろも鍛えられていったのでしょう。

そして、みちも、その母の下で、どこに出しても恥ずかしくない女性として鍛えられました。

みちは卒業後、母校の系列である静岡英和女学校で教職につきましたが、半年ほどして箱根に戻ると、母ひろは方針を一転して変え、みちを完璧な主婦に育てるべく、自らの手で家事、とりわけ料理と裁縫を教え込んだとのこと。

いや、すごいです。

進取の気性に富みながらも厳格で、「何をするにも系統だったところがあった」ひろの気立ては、みちにも受け継がれたようで、彼女がのちに綴った世界一周日記の言葉のなかにもそれが見受けられます。

その後、みちは、外国人相手に古美術商を営んでいた「サムライ商会」の野村洋三と明治31(1898)年に見合い結婚をします。3人の子どもの母親業をしながら、留守がちな夫に変わって店を切り盛りし、明治39(1906)年には、中国への古美術の買い付けで、初の海外渡航を果たします。

(サムライ商会 関東大震災で被災するも、すごい奇抜な建物だったようです)

そして2年後に、いよいよ世界一周の旅に出かけることになるのです。

朝日新聞社主催の日本初の海外団体旅行

この世界旅行を主催したのは、東京・大阪の朝日新聞社です。

時は日露戦争勝利の余韻がつづく頃のこと、日本は1906年に関東総督府を旅順に置き、南満州鉄道株式会社を設立し、欧米列強がその動きに目を光らせていた時代のことです。日本初の海外団体旅行には、そんな不穏な情勢を一般人同士の交流で改善しようという狙いもあったようです。

手配を行ったのは、昨年経営破綻し、旅行業会を揺るがしたトーマス・クック社でした。

世界初の団体旅行を開発した同社については、いつかあらためてふれることにして、朝日新聞は、当時すでに世界一周団体旅行を数々行い、横浜に「世界一周会」の日本支店を置いていたトーマス・クック社と交渉を開始し、1907年12月21日、世界一周旅行の会員を募集する社告を同紙に掲載したのでした。

初の世界一周旅行は2340円、54人が参加

旅行代金は、2340円でした。当時の民間企業の大卒初任給が35円〜40円だったそうですから、破格です。現在の貨幣価値にすると1200万円ほどに相当するそうですが、世界水準としては安かったようです。

当初、最小催行人員は25名、最大募集人員は50名でした。その募集に対して、80人近い応募があり、朝日新聞社は、朝日の随行記者2人を除き、「申込者の地位、職業、身体、教育等についていろいろ比較研究をした上で」54人を選びました。「中流以上の人士」で実業家が多く、地方の名士、教員や学生など、年齢層も16歳から65歳と幅広く選ばれました。

参加者のなかには、ジャーナリストの杉村楚人冠、野村證券創業者の野村徳七、高千穂学園創設者の川田鐵彌の名前があり、女性はみちを含めて3人でした。

欧米と中心とする世界一周旅行の日数は96日間。交通機関が今日ほど発達しておらず、移動に時間を要するなかで、たとえばパリ滞在など3日間と、かなり慌ただしい日程が組まれました。それでもこの旅行は、記念すべき、民間で実施された日本初の海外団体旅行でした。

行き先は、ハワイから太平洋を航海してサンフランシスコに渡り、西から東へアメリカ大陸を横断、ニューヨークから大西洋を渡ってイギリスに入り、フランス、イタリア、ドイツ、ロシアを歴遊ののち、シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断、ウラジオストクから敦賀に帰国しました。

帰国後、野村みちは、この貴重な、夢のような旅行の体験記を『世界一周日記』として出版します。

これを現代語訳したものが、2009年、『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』として神奈川新聞社より刊行されました(現在は絶版)。

この連載では、本書をもとに、野村みちの日記に書かれた言葉を拾って、注記を広げながら110年前の世界をのんびり進みながら旅してみたいと思います。

つづく

次回 「横浜グランドホテル」日本の西洋式ホテルと海運の黎明

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