「横浜グランドホテル」日本の西洋式ホテルと海運の黎明

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)をもとに、野村みちの日記に書かれた言葉を拾って、注記を広げながら110年前の世界を旅してみたいと思います。

出発前夜はこちらから

初のミス日本が選ばれた1908年

1908年3月18日、野村みちと朝日新聞の随行記者2名を合わせて総勢56人が民間による、日本初の世界一周96日間の旅に横浜港から旅立ちました。

三月一八日

いよいよ船出の日が来ました。昨夜からの雨に雪まで交じり、早春の寒さが身にしみます。自宅には朝早くから、見送りの人々が引きも切らずいらっしゃいます。午後0時三十分、家族や遠来の親族とともに家を出ました。(中略)お別れを申し上げてから、グランドホテル(注1)より私専用に差し向けていただいたボートで、汽船モンゴリア号(注2)に乗り込みます。船まで来てくださった方も百人以上いらっしゃいました。美しく着飾った女性の皆様が雨もいとわずお見送りくださったのが、とてもうれしく思われました。

※注、強調は、筆者

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』 神奈川新聞社

出発前日の最低気温は1.4度と記録にありますから、この日の朝も寒かったのでしょう。

末広ヒロ子。孫娘は、美智子上皇后の弟とご結婚されたとか

1908年3月の出来事を振り返っておくと、7日には青函連絡船が運行を開始し、5日には、アメリカの『シカゴ・トリビューン』が「ミスワールドコンテスト」を開催するに際し日本の時事新報社に依頼し、この日、初のミス日本に、学習院女学部の15歳、末広ヒロ子が選ばれました。

他方、8日にはニューヨークでは女性がパンと参政権を求めてデモ行進し、24日には「原始、女性は太陽だった」とのちに『青踏』を発刊する平塚らいてうと、漱石門下の森田草平との心中未遂事件、俗にいう「煤煙事件」が起きています。

煤煙事件が起こったときには、野村みちはすでに船上の人であり、そのことを耳にするのは帰国後だったでしょうか。たくましい海外の女性たちにふれて、みちは何を思ったでしょう。

異国の人々とふれあうなかで、みちの視線は彼我の違いに及び、日本男性のだらしなさや、日本女性のあるべき姿について綴っている箇所もありますので、またご紹介したいと思います。

(注1) グランドホテル 横浜・関内の誕生

野村みちが世界一周に発ったのは横浜港です。

横浜で、「グランド」と聞くと、「ホテルニューグランド」のことを思い浮かべますが、ホテルニューグランドができたのは、昭和2年のこと。みちを船まで運んだボートを差し向けたホテルとは別のものです。

ただ、その名前は公募で募ったとされますが、ふさわしい名前がなく結果的に創立委員会の面々が、横浜の居留地にあった、かつての日本を代表する「グランドホテル」の名を取って決めたともいわれます。

ここで少し、横浜の歴史を振り返っておきましょう。

みちの世界一周旅行から遡ること50年、江戸幕府とアメリカとのあいだで日米修好通商条約が締結されます(日米修好通商条約、ん十年ぶりに書き起こしました。笑)。

この条約によって、日本は箱根に加えて、長崎、新潟、兵庫、そして神奈川の開港と、居留地の設置を求められます。

神奈川、ですから、すでに東海道の宿場町として栄えていた神奈川宿を開いてもよかったのですが、日本人、攘夷派の浪士たちと外国人とのトラブルを避けるために、寒村だった横浜村に開港地が変更されたとのこと。幕府の脳裏には、3年前に発生した生麦事件の苦い記憶が残っていたのでしょう。

波止場が建設されたのは、現在の山下公園のあるあたり。下の地図の元町あたりから桜木町あたりにかけて、もともとは、砂嘴だった場所です。

横浜村は元町・中華街あたりにあり、砂嘴で、横に浜がびよーんと細長く伸びていたから、横浜と名付けられたそうな。

ということは、その周りは海だったということで、さらに遡ると、桜木町から吉野町、蒔田辺りまで、地図上でいうと碁盤の目のように細かい道が巡らされている一帯は入江でした。それが17世紀に、新たな田地を求めて埋め立てられたのです。

横浜開港にあたっては、砂嘴の周囲を海と運河で取り囲み、砂嘴を渡る橋に関門が設けられ、武器を持つ人間をチェックしていたそうです。

つまり、関内の由来です。

(注1) グランドホテル 居留地の外国人の活躍

横浜村のあった場所には外国人居留地が置かれ、そこに(現在の「人形の家」あたりに)グランドホテルが建設されました。1873年のことです。ほかにも数十軒のホテルが建設されそうです。

1873年といえば、新橋と横浜が鉄道で結ばれた翌年のこと。当時の横浜駅が桜木町駅だったのはご存じの方も多いかもしれません。

おそらく昭和の頃の横浜駅 現在の桜木町駅

グランドホテルを設計したのは、リチャード・ブリジェンスです。アメリカ人の建築家と紹介されますが、イギリスはバーミンガム生まれ。イギリスのカリブ海の植民地トリニダードへ渡ったのち、アメリカへ移住し、妻の姉アンに呼び寄せられ、1864年か翌年に横浜にやってきたようです。

このアンというのは、ラファエル・ショイヤーの妻。ラファエル・ショイヤーは、ニューヨーク生まれのユダヤ人で、横浜居留地に移り住んだ最初期の外国人です。骨董仲買人であり、The Japan Expressという新聞の発行者でもあり、生麦事件のことも報じています。

ラファエル・ショイヤーは1865年に亡くなり、アンはヴァン・ヴォルゲンバーグ アメリカ公使と再婚します。狭い世界ですね。

外国人居留地にホテル建設を求めたのは、歴代のイギリス駐日公使・大使のなかで最長の18年を務めたハリー・パークス公使でした。しかし、それを要請したとて、ホテルなるものがよくわからぬ幕府では、らちがあかぬだろうと、公使間のつきあいで、その建築家の名を知ったのか、リチャード・ブリジェンスを推薦したとのこと。

ブリジェンスは、イギリス仮公使館を最初に、日本初の西洋式ホテル・築地ホテル館、上に掲載した横浜駅(現・桜木町駅)、新橋駅、旧横浜税関、そして、グランドホテルなどを手がけたとされます。

築地ホテル館、1868年開業、1872年の銀座大火で消失

グランドホテルは帝国ホテルと並び、日本を代表するホテルとして名を広めていきますが、近代デザイナーの先駆けといわれるイギリス人のクリストファー・ドレッサーが、堅牢な石造りの建物と思っていたら、壁の表面に石板を貼った木造建築だったと、著書で明かしているそうです。他方、料理はパリのグランドホテルにいるようだ、とも。

グランドホテルの料理長は、築地ホテル館の料理長も務めたフランス人、ルイ・ベギューで、神戸オリエンタルホタルの社主にもなり、宮中晩餐会の料理も手がけた日本における「フランス料理の父」と呼ばれた人物です。

一時代を築いたこのグランドホテルですが、1923年の関東大震災により、倒壊焼失しました。

また、ラファエル・ショイヤーも、リチャード・ブリジェンスも、横浜外国人墓地で永眠しています。死期迫ったとき、異国日本で、ふたりは何を思ったことでしょう。

グランドホテルは下のブログに詳しく、興味がわいた方は読まれるべし。

(注2) 汽船モンゴリア号 岩崎弥太郎と三菱商会

みちをはじめ「世界一周会員」が乗船した船そのものについて、日記にはつまびらかにされていませんが、姉妹艦マンチュリアのエピソードも紹介されていることから、パシフィック・メール(太平洋郵船 / PM)汽船会社のモンゴリア号と考えて間違いないでしょう。

幕末から明治初期、開港とともに、近代国家を築かんとする日本にハゲタカがやってくるわけですが、PM社がその一角。まだ西洋列強と天と地ほどの技術差があった時代のこと、当時の流通の主役、海運を担う造船技術も未熟なもので、日本沿岸の海上輸送をPM社は独占しようと企みました。

岩崎弥太郎像

1874年、明治政府は台湾出兵を決意します。その兵員の輸送を英米の船会社に依頼するも中立を理由に拒否されてしまい、政府肩入れの日本国郵便蒸汽船会社に打診するも、こちらも煮え切らない。当時躍進していた岩崎弥太郎の三菱商会に留守を狙われて、その座を奪われるのではないかと恐れたのです。これに対して、大隈重信長官はもう待てんと、岩崎を呼びつけて協力を求めます。

岩崎はこれを二つ返事で引き受け、それを成功させた三菱(のちに郵船汽船三菱会社)に、以来、明治政府は日本の海運を任せていくことになります。

明治政府は外国商船依存から、自国の民間会社保護育成に方針を転換し、日本沿岸、外航から外国海運資本を排除する方針を固めるのです。

そしてその政府から、綿花の輸入をおもな目的とする横浜ー上海航路の開設を請われた岩崎は、パシフィック・メール、つづくイギリスのペニンシュラ・オリエンタル汽船会社との激しいダンピング競争を勝ち抜き、日本が自前で外国への航路を切り開いていく端緒となりました。

この岩崎弥太郎のビジネス成功譚は、盟友坂本龍馬と「世界の海へ」という男の約束にも彩られ、実に麗しく、かっこいいのです。

(注2) 汽船モンゴリア号 パシフィック・メール社とハリマン

話が少々ずれましたが、パシフィック・メール汽船会社は、1848年にパナマ経由でアメリカの郵便を運ぶために設立された会社でした。その後、ゴールドラッシュの時代に人と物資を運んで活躍し、1869年にアメリカ大陸横断鉄道が開通したのちはパナマ経由の郵便事業は撤退を余儀なくされますが、1867年には横浜とサンフランシスコ、そして香港を結ぶ太平洋横断の定期航路を開設。これがドル箱に成長していったと思われます。

船は拡大化し、1903年に登場したのが、初の1万3000トン級のモンゴリア号でした。

モンゴリア号。第一次世界大戦に徴用され、Uボートを沈めたとも

この船をPM社がローンチしたときには、エドワード・ヘンリー・ハリマンが同社を仕切っていました。

このハリマンなる人物は、鉄道王といわれ、アメリカの鉄道会社を占有した超セレブリティです。これまた日本とゆかりが深く、日露戦争を戦うために日本が発行した公債を引き受けたり、満洲鉄道の共同経営を持ちかけたり、セオドア・ルーズベルト大統領のお友だちでもあり、アメリカ国立公園の父となるジョン・ミューアや科学者を乗せてアラスカ視察旅行に出かけたりするなど、興味の尽きない人物なので、いつかまたご紹介したいです。

モンゴリア号は、1904年から1915年まで、PM社の太平洋横断サービスで使用され、香港、ハワイ、サンフランシスコを結んでいました。野村みちもまた、このモンゴリア号に乗って、世界一周の最初の訪問地、ハワイを目指しました。

つづく

次回 ハワイから伝わった「カナカ」 ユニークな小笠原ことば

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