ハワイから伝わった「カナカ」 ユニークな小笠原ことば

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)をもとに、野村みちの日記に書かれた言葉を拾って、注記を広げながら110年前の世界へ出かけましょう。

前回 1908年3月18日 横浜
(注1)グランドホテル
(注2)汽船モンゴリア号

野村みちは日付変更線を越えて、ハワイへ

野村みちを乗せたモンゴリア号は南洋へと船出し、日付変更線を越えて、途中船酔いに苦しめられながらも、みちは9日後にハワイに到着します。

三月二十七日
今朝五時頃カウアイ島が見え、十時頃にはかすかにオアフ島が見えました。船が陸地に近づくに従って、風は静かに波は穏やかになっていきました。

午後2時頃、ホノルル郊外に着き、検疫を終えて、三時に入港しました。
海水の色は格別に鮮やかで、硫酸銅(注3)のようです。黒い肌をした先住民カナカ人(注4)の子どもたちが何人も、船の近くまで泳いできて何やら叫んでいました。話に聞く「潜水者」に違いありません。
船客が銀貨を投げると争うように潜り、銀貨が海底まで落ちないうちに取っているらしく、たちまち浮上して客に銀貨を示します。

※注、強調は筆者

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)

(注3) 硫酸銅 自然の色は鉱物色

今も昔も、ハワイの自然の美しさは変わりません。みちはこれより以前、中国の広東に買い付け旅行に出かけたことはありましたが、人生で初めての南洋の島の風景を目にしたでしょう。その見たこともないような海の輝きを表現するのに、みちは硫酸銅のようだと書いています。

今は使わない表現かと思います。記憶を辿れば、中学や高校の理科の実験で硫酸銅を使用したという方がいらっしゃるかもしれませんが、だいたい劇物ですし。

しかし、当時の人々にとってはもう少し身近な存在だったのかもしれません。ボルドー液と呼ばれる農薬に使用されていたり、硫酸銅の結晶、胆礬(たんばん)から取られた胆礬色(たんばいろ)は、日本の伝統色で、歌舞伎で恐怖を表す顔色を形容するのに使われていたりしたそうです。

硫酸銅、と目にして頭をよぎったのが、硫酸銅などを含んだ鉱山の廃液が渡瀬川に流れ込み、流域に暮らす人々に大きな被害を与えた足尾鉱毒事件です。政治家の田中正造が明治天皇に直訴したのが1901年のことで、報道も広くされましたが、だからといって、硫酸銅という言葉、色そのものをマイナスイメージでとらえることはなかったのでしょう。

一般の(野村みちは一般女性はいえないかもしれませんが)明治女性が使っていたなら、色を形容するのに、胆礬や硫酸銅は、ほかにも使われていただろうと頭をめぐらせていると、鉱物好き少年だった宮沢賢治が思い浮かびました。調べたら、『春と修羅』(1924年)にありました。

第三集の「電車」と付けられた詩のなかで

はんの木立の向ふの方で
黒衣のこども燐酸を播く
  ……ガンガン鳴らして飛ばして行く……
田を鋤く馬と白いシャツ
胆礬いろの山の尾根

比喩の巧さで知られる、三島由紀夫も使っていました。しかし、この時代になると、もうやっぱり、実験のイメージになったようです。

私はたびたび保津川を窓外に見た。それは化学の実験で使う硫酸銅のような、くどいほどの群青いろをしていた。

『金閣寺』1956年

今ならハワイの海の色は、SNSを覗けば、エメラルド・グリーンなどと表現されるでしょうか。

色ひとつを表すにも、時代性はあるのでしょうが、野村みちの時代も、今も、自然の色と鉱物は相性が良いようです。

ハワイのビーチ。海の色をどのように表現しますか?

(注4) カナカ人 ユニークな小笠原ことば

野村みちがハワイに入港したとき、目にしたのは、黒い肌をした先住民の子どもたちでした。

カナカ人、というのも聞き慣れない言葉ではないでしょうか。

この言葉を現在も、かどうかは、わたしには確認できませんが、少なくとも現代まで使っている場所があります。小笠原諸島とサイパンです。そこで話される日本語の中に出てくるそうです。

小笠原もまた、本土とは異なる歴史を歩んできた島です。

長らくそこは無人島で、人々が入植を開始したのは1830年のこと。男女30人ほどから成る入植者が、ハワイのオアフ島から父島に渡ってきました。そんな具合ですから、当時はどの国の領土でもありませんでした。

しかし19世紀半ばともなると、地球は〝小さく〟なり、欧米列強が隅々にまで覇権を及ぼそうします。

黒船に乗ったペリーは浦賀にやってくる前に、小笠原の父島に立ち寄り、土地を購入し、アメリカの領土としました。このときに、ペリーが移民の頭目に選んだのが、最初の入植団のひとりである、アメリカ人のナサニエル・セーボレーでした。

ペリーの来航もあり、当時の国際情勢に目を見開かせられた幕府は、領土や国境といったものの重要性を知っていったのでしょう。小笠原へ咸臨丸を派遣するなどしますが、欧米諸国の同意を得て、小笠原が日本の領土と認められたのは、明治維新後の1876年のことです。

このとき、欧米系の島民は、日本人に帰化させられます。

ナサニエル・セーボレーの子孫

その後、20世紀にかけては、農業基盤が整ったこともあり、八丈島などから移住者が増え、サトウキビ栽培が軌道に乗り、さらに夏野菜を栽培して島は潤いました。

1920年代になると、きな臭い匂いが漂い始め、やがて小笠原諸島は硫黄島とともに太平洋戦争の前線と化し、島民が本土に強制疎開させられたり、島で軍属として徴用されたりして、島民は大変な犠牲を強いられました。

そして終戦後は、1968年に返還されるまで、アメリカの領土となりました。

ポリネシアからの移住、日本化、そして戦後のアメリカによる占領により、ポリネシアと日本、アメリカの文化が混在した、小笠原独自の文化が生まれました。つまり小笠原は、太平洋と日本と西洋が混じり合う希有な地として歩んできたといえるでしょう。言葉にもそれが表れています。アメリカ占領時代があったことで、本土では新しい言葉に置き換えられた乳バンドやサルマタなどの言葉がそのまま残ったり、本土では使用しない言葉が使われたりしました。

カナカも、そのひとつ。小笠原ことばを研究している、ダニエル・ロング東京都立大学教授によると、もとは、ハワイ語のkanaka(人間)に由来し、それが太平洋地域で広がり、各地のピジン英語に入ったのだといいます。また広い意味では、太平洋諸島の住民一般を差す総称として使われているが、狭い意味では、小笠原で、蔑視的に使われていたとも。

このダニエル・ロング教授の研究はとても興味深いです。

果たして、野村みちがこの言葉をいつ、どこで知ったのか。もともと日本にいるときから、どこかで聞いて知っていたのか、それともハワイに着いてから、あれは「カナカ人」だよ、と教えられたのかはわかりませんが、ハワイを発つときにも、この「潜水者」に遭遇するさまを記していて、褐色の肌を持つ子どもたちは、よほどみちの印象に残ったものと思われます。

さて、野村みちがハワイに滞在しているあいだに、ハワイの本をご紹介。ご存じの方も多いと思いますが、池澤夏樹のとにかく厚い、静かに熱い一冊です。ぜひ、ご覧ください。

つづく

次回 ねぇ、ねぇ、ハワイにはどうして日系人が多いの?

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