ねぇ、ねぇ、ハワイにはどうして日系人が多いの?

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)をもとに、野村みちの日記に書かれた言葉を拾って、注記を広げながら110年前の世界の旅へ出かけましょう。

前回 3月27日 ハワイ編1
(注3)硫酸銅
(注4)カナカ人

みちも出かけた展望台 ヌアヌ・パリ 

午後3時にハワイに入港したみちたち世界一周会員は、ホテルに到着する前に市内観光に出かけます。

クック社が用意した馬車七台に分乗し、ホノルルの市中を通過し、名勝地のヌアヌ・パリへ向かいます。ホノルルの街はよく整っており、日本人(注5)が営む商店も多数ありました。郊外に出ると道の両側に熱帯植物が鬱蒼と繁っています。緑の葉の中に紅や黄色、紫や白の花々、豊に実る果物が美しく鮮やかに映え、目の覚める思いでした。

※注、強調は筆者

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)

昔は馬車だったか、と思われるかもしれませんが、1908年当時、すでにハワイには自動車が走っています。それほど車は普及していなかったかもしれませんが、観光用に馬車が用意されていたのかもしれません。

ヌアヌ・パリは、「ヌアヌ」が涼しい高台、「パリ」が崖を意味するとおり、東岸のカネオヘ湾を見下ろせるホノルル郊外の展望台です。その美しい眺めとともに、オアフ島に上陸したカメハメハ王がオアフの軍勢をここに追い詰めて勝利し、1759年にハワイ統一を初めて成し遂げた歴史的な地として知られます。

ヌアヌ・パリ 時に貿易風が吹き抜ける風の強い場所です

カメハメハ王は、英語を操り、知力、胆力、武術にも長けた、まさしく大王です。ハワイ統一を果たせたのは、イギリスから武器援助を受けていたのが大きな要因です。

(注5)日本人 ねぇ、ねぇ、どうしてハワイには日系人が多いの?

ハワイをお訪ねになった方は、ハワイに日系人が暮らしていることをご存じでしょう。

しかし、1908年に日本人が、とお思いになるのではないでしょうか。

1893年、リリウオカラニ女王は廃位を余儀なくなれ、ハワイ王国は滅ぼされてしまいますが、このときまでに3万人ほどの邦人がハワイに渡り、1900年から1907年のあいだにおよそ7万人がハワイに赴きました。

そのなかで、日本に帰った移民もいれば、亡くなった人、またアメリカ本土へ渡った人もいて、1900年時点で、約5万人の日本人がハワイにいました。これはハワイの人口の4割にあたります。

みちの目に、日本人の商店が入るのは至極のことです。
しかしなぜ、そんなに多くの日本人が、と思いますよね。

その謎の答えを、チコちゃんふうに言うなら、どどん、

アメリカ人がやってきたからぁ〜 となりましょうか。

どどど、と一気に申し述べます。

19世紀にアメリカ人がハワイにやってきて、サトウキビ畑を興し、土地制度の制定をそそのかして、政府や王領地から土地を安く買ってたくさんの土地を自ら得て、サトウキビのプランテーションを広く展開し、さらにアメリカ人が持ち込んだ病原菌によって、免疫を持たないハワイ先住民の人口が急速に減少したことで(1778年に約30万人だったのが、その後の100年で、4万4000人に)、労働力不足解消をハワイ王国が海外に求め、その求めに応じた明治政府が、官約移民を送り込んだ、というわけです。ふぅ〜。

ハワイのサトウキビ生産量が増えたのは、アメリカと互恵条約を結んで、無関税になって、輸出が増大したからです。他方、この条約によって、1888年にアメリカは真珠湾の独占的使用権をハワイ王国から得て、軍事拠点を築いていきます。

ハワイは1898年にアメリカに併合され、1959年にはハワイ州となりました。

サイザル麻プランテーションで働く日本人

1900年以降に増えた沖縄移民と写真花嫁

繰り返しになりますが、政府による官約移民のあと、1900年以降も、日本からの移民は、自由移民となって、増え続けます。それ以前は、広島県や山口県、福岡県、熊本県など、西日本出身の移民が多かったのですが、20世紀に入ると、沖縄からの移民が増えます。

沖縄は当時もけっして豊かではありませんでした。

移民の増加は、人口過多や出稼ぎ先からの送金を期待してのことです。それに加え、徴兵忌避や、沖縄では、1899年からの地割制度の廃止もそれに影響を与えたとのこと。

土地制度改革が行われて、それまで共有地があるだけで、土地所有が認められなかったのが、認められるようになり、すなわち、土地を私有するということは、それを売ることもできて、土地に縛られて生きる必要がなくなりました。土地を売ったお金で、移民を志した沖縄県人も多かったようなのです。

しかし、みちが世界一周をしている1908年には、増え続けるアメリカへの日系移民に対して、アメリカ人の仕事が奪われると(それを煽って、大統領になった人も最近いますね。歴史は繰り返されます)、アメリカ政府はNOを叩きつけ、日米紳士協定なるものが結ばれます。

これより組織だってのアメリカへの移民は行われませんが、親類や、見合い写真を介して結婚相手を呼び寄せる、「呼び寄せ移民」が増えていきます。写真花嫁というやつです。いったんハワイに入ったあとに、離婚して、別々の道を歩む〝仮夫婦〟の例もあったようです。アメリカへ行く足掛かりとして利用したのですね。

しかし、ハワイにやってきたとて、生活がすぐに上向くわけではありません。プランテーションでの仕事も苦労は絶えなかったでしょう。

『ホレホレ節』はハワイ移民一世がつくったという、労働歌です。ホレホレ、とはサトウキビの枯れ葉を手作業で掻き落とす作業を指しました。そう体力のいる仕事でもなく、おもに女性の仕事で、歌を歌い、単純労働と労苦を紛らせるために、励ましあいながら、歌われたのではないかと。即興で、いろんな歌詞をつけたので、いろんなバージョンがあるようです。

他方、アメリカに行けなくなった沖縄県人ら移民を志す人たちは、ブラジルをはじめ南米を目指すことになるのです。

『憧れのハワイー日本人のハワイ観』

ハワイと日本は長きにわたって、ご紹介したような移民送り出し国と受入れ国など、さまざまに関係を紡いできた地です。そのハワイへ注ぐまなざしは戦前から戦後、現代まで時代に合わせて変化してきました。その、日本人のハワイへのまなざしの変化を探るのにうってつけの一冊が、『憧れのハワイー日本人のハワイ観』です。こちらもぜひご覧ください。

次回 ハワイと和歌山の意外な歴史的つながり

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