「感動ポルノ」と共感と理解

変なおじさんとの出会い

一昨日、『あいまいさを引きうけて』(かもがわ出版)という本の一節をご紹介しました。この本は、ジブリの映画化も話題になったルグウィンの『ゲド戦記』の翻訳者であり、児童文学者でもある、清水眞砂子さんのエッセイや、清水さんが敬愛する哲学者、鶴見俊輔との対話が収められた一冊です。

この本には、ハッとさせられたり、ほんとそうだなというフレーズがたくさんでてきますが、もう少しだけ、都立多摩図書館で行われた講演会の書き起こしのなかからご紹介します。

(学校で、勉強ができなくて、目をかけられたことがないという、そんな意識を持っている子どもたちに対して)
どうしたら、彼らの思考の枠を広げることができるか。考えてみれば、彼らが育つ過程で出会ってきた人は、家族や学校の先生など僅かな大人たちです。それ以外の人に、たぶん出会ってない。(中略)
しかも、本を読んでいない。本といっても、私のいう本は大半が文学作品ですが、そこにはそういう奇人変人がたくさん出てくる。でも、読んでいないのでそれも知らない。となると、彼らは本当に狭い自分の体験のなかだけで生きているわけです。そんな人もいるのか、そんな生き方もできるのかなどと、考えたこともない。

ああ、こんな人もいるんだ、生きていけるんだ、と思えるような人の存在や、人との出会いは、とくに同調圧力の強い社会のなかでは大切なことです。

いわゆる、親子でもない、友人でもない、〝ななめの関係〟というやつで、ときに映画のバックボーンにもなります。寅さんと甥の満男の関係なんかがそれです。

むかしはいまよりは、変なおじさん率は高かったように思います。しかしいまでは車寅次郎はなかなか成立しにくいでしょうし、志村けんの変なおじさんも見ることができなくなりました。

時代の流れと時代の変化ではありますが、せめて、本や映画で、出会うことができればというのは、清水さんのおっしゃるとおりです。

ネットは世界に開けてはいますが、自ら意識的に〝動かなければ〟、見たいものを見るだけです。ふと手にした本や、なんとなく選んだNetflixのドラマや映画で、偶然、変なおじさんやおばさんに出会って、というのは、これからもあるかもしれません。

ただ、そんな、おじさんやおばさんは、ちょっと変わっているだけに、相手するのが、面倒くさかったりします。わたしもどちらかといえば、シャットアウトしがちで、敬遠してしまうほうです。

共感はできなくとも理解はする

もうひとつ、同書には、こんなことも書かれていました。

去年、私は「感動ポルノ」という言葉に出会って、おぉっと思いました。この言葉は、まだ生まれたてで、ごつごつしていて、これからだんだんに角もとれていくのかもしれませんが、今はその角がいい。力があります。

これも同じ、都立多摩図書館の講演会でのことばです。

翻訳者であり、ことばに敏感でいらっしゃるのはわかりますが、当時でも御年、70代半ばを過ぎているのに、感性もいまだ、とてもやわらかい方なのだと拝察し感心します。

確かに、この「感動ポルノ」ということば、いわれだしてからしばらく経ちますが、力があります。

感動ポルノで思い出したのが、昨年見かけた、日本文学の研究者、ロバート・キャンベルさんと国際協力活動家の永井陽右さんの対談記事です。

こちらも、とても考えさせられる対談記事で、いまだに印象に残っているくらいです。ロバート・キャンベルさんの、

ただ、私自身はいくら共感される側とはいえ、感動ポルノの題材として消費されるのは全くいい気がしません。そんなものより、「正直、僕は同性婚って気持ち悪くてよくわからないけど、そういう人がいてもいいんじゃない」などと言われるほうが、よほどうれしいです。

ということばに、もちろん、一個人の気持ちには違いありませんが、そういうものなのかと思い、再びキャンベルさんの、

多様性を尊重するというのは、「共感はできなくても理解はする」ということに他なりません。

ということばに、あぁ、それならできるかも、と(LGBTに限定されるのではなく、多様性ということに対して)。

他者に寛容になれといわれても難しい他者もいるかもしれませんが、理解しようと努めることはできます。

変なおじさんも、受け入れられなくとも、理解しようと努めることはできるし、状況や環境によって、その理解がふとしたときに血肉になって、化学変化することもあるだろうと思うのです。

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