ハワイと和歌山の意外な歴史的つながり

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)をもとに、野村みちの日記に書かれた言葉を拾って、注記を広げながら110年前の世界の旅へ出かけましょう。

前回 1908年3月27日 ハワイ編2
(注5)日本人

(注6)アレキサンダー・ヤングホテル 20世紀初頭ハワイ最大のホテル

横浜を出港した野村みちら世界一周会員たちは、太平洋を南下し、ハワイに到着。ヌアヌ・パリを訪ねた後、一夜を過ごすホテルへ。

三月二十七日

その後宿泊先であるアレキサンダー・ヤングホテル(注6)へ移動。晩餐会に出席いたしました。(中略)
この晩はこのホテルに泊まります。これほど広大な建築と行き届いた設備はアメリカ本土にも数少ないと聞いておりましたが、まさにその通りでした。
大理石の装飾は目を驚かせる見事なものですし、客室数は二百以上。近年増加している避寒客をオアフ島に集め、太平洋航路の旅行者にホテルを知ってもらってホテルの名声とともにハワイを世界に紹介しようという目的で造られたそうです。

※注、強調は筆者

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)

いまどき、ホノルルではどのホテルが人気を得ているのでしょう。カハラ? リッツ? それともトランプ? しかしまだまだ往年のハワイファンにおなじみの歴史あるホテルも人気があるようです。 その代表格が、三井不動産が所有する「ハレクラニ」と、ピンク色の「ロイヤル ハワイアン」、ワイキキ初の大型ホテルともいわれる「モアナ」でしょう。

ロイヤルハワイアンホテル

世界一周会員たちがホノルルに寄港した当時、ハレクラニはまだ現在の姿を留めず、ロイヤル ハワイアンはまだ前進のハワイアンホテルで、モアナは1901年の開業ですから、すでに存在はしていました。

しかし、みちたちが泊まったのは、「アレキサンダー・ヤングホテル」でした。このホテル、実は当時ホノルル最大を誇る建築物であり、世界一周の船客を迎えいるくらいですから、ハワイ随一のホテルでした。いや、みちの言うように、アメリカの中でも、広さや設備など、第一級のホテルだったようです。

このホテルのオーナーは、その名も、アレキサンダー・ヤングで、1833年生まれのスコットランド人。カナダ・バンクーバーで働いたのち、1865年にハワイの土を踏みますが、温暖な気候は彼を虜にしたのでしょうか。製鉄所を長年経営して財を成し、ハワイ共和国初の大統領にして、アメリカ・ハワイ準州初の知事でもあった(〝悪役〟として紹介されることも多い)ドールの下で、内務大臣を務めたというのですから、ハワイ白人社会の実力者でもあったのでしょう(ちなみに、パイナップルのドールは、大統領のいとこが始めました)。

ヤングは、ロイヤル ハワイアンの前進のハワイアンやモアナも買収するなど、今で言うならハワイのホテル王として、ハワイ史に名を刻む人物といっていいでしょう。

1910年にヤングは亡くなりますが、ホテルは存続し、第二次世界大戦中には米軍によって半ば接収されていました。戦後は、ハワイがますますリゾート地としてその地位を高めていくなか、ホノルルの一等地にあるホテルとして自らを喧伝し、1950年代半ばにしてすでにエアコン付きのスイートホテルを謳っています。

しかし、観光客の熱い視線がモアナはじめ高級リゾートホテルが並び立つ、人工の砂浜・ワイキキビーチに向けられていくなか、徐々にホテルとしての魅力は失われていったのでしょう。1964年にはオフィスに改装され、歴史遺産に認定されるも、1981年に解体されました。今はその跡地には、地図の位置からすると、アストン・アット・ザ・エグゼクティブ・ホテルが建っています。

ハワイ土産の定番 マカダミアナッツ・チョコレート

このホテルにはもうひとつ、日本人にも馴染みのある逸話があります。1930年代半ば、マカデミアナッツをチョコレートでコーティングした菓子を初めて販売したのが、アレキサンダー・ホテルのショップだったのです。

お馴染みハワインホーストの
マカダミアナッツ・チョコレート

そしてもうひとつ、同時期にマカデミアナッツ・チョコレートを売り出した菓子屋があり、それがエレン・ダイ・キャンディーズ。1960年、この店は、日系人のタキタニ・マモルによって買収され、その際に社名も変更しました。それが、ハワイアンホースト。ひと昔前、ハワイを訪ねた日本人旅行者の誰もが買い求め、ご近所に配っていた、あのマカデミアナッツ・チョコレートです。

100年以上の歴史を持つワイキキ水族館

三月二十八日

午前八時三十分、世界一周会一同は波止場に集まり、馬車を連ねてキング通りに出て、ハワイ政庁、すなわちもとのカメハメハ一世の王宮、裁判所の前を過ぎ、カピオラニ公園を通り、ワイキキの水族館に向かいました。(中略)
ほどなくワイキキ水族館に着きました。小規模ながら、ここほど珍しい魚介類が揃っているところは世界にもないそうです。
さまざまな色をした魚たちはあたかも友禅染のようでした。(中略)
そもそもこの水族館は、当地の日本人漁師(注7)が遠い海で網にかかった見慣れない魚を生きたまま持ち帰ったことから始まったそうです。

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)

今でこそ、各地に水族館がありますが、当時はまだ珍しかった水族館がすでにハワイにあったことに驚かされます。ワイキキ水族館は1904年の開業。今も営業を続けている由緒ある水族館です。絶滅危惧種のハワイアザラシに会えるほか、ハワイの海に生息する固有種の説明などを通して、ハワイの海を守ることの大切さを学ぶことができます(日本語の音声ガイドもあります)。

この水族館の成り立ちが、日本人漁師が持ち帰った魚から始まったというのもユニークです。

(注7)日本人漁師 ハワイと和歌山のつながり

1900年から1950年にかけて、ハワイの人口のおよそ4割を日本人、日系人が占めていたことは、前回書きましたが、それだけの日本人のマーケットがあれば、日本人むけの商品を、日本人が商いをして、販売することは道理でしょう。

漁業もそのひとつでした。ハワイの先住民が好んで食べていたのは、マヒマヒと呼ばれるシイラなどでしたが、日本人はカツオやマグロを好み、日本人漁師がそれらを釣って彼らに届けました。自ら漁業会社を立ち上げ、日本人漁師に融資して、魚を買い取り、卸し、加工まで行う流通システムまで築き上げていたようです。

その中心人物のひとりが、和歌山から漁業を目当てにハワイに渡った中筋五郎吉です。彼ら船団は故郷で培った撒き餌を使って漁を行いました。ハワイ人の何倍もの漁獲量を誇り、魚の値段が暴落するなどして、ハワイ人漁師たちの反感を買い、中筋は操業中に命を狙われたこともあったそうです。

他方で、地元のハワイ人漁師たちと共存共栄を図り、互いに漁のやり方を教え合うこともあり、そのなかで、中筋が教えられたのが「ケンケン」を使った漁法でした。

このケンケンを説明するときに出てくるのが、前々回、注釈を加えた「カナカ」です。すなわちハワイ人のことですが、「ケンケンとは〝カナカ語〟で、釣り道具や鳥の羽根のことを意味します」などと紹介されます。この擬似餌を使った漁法を中筋が試したみたところ、漁獲高が上がったそうな。

そして、これが和歌山に逆輸入され、南部の串本町やすさみ町で今も行われている「ケンケン漁」の語源になったといわれます。その名がつけられた「ケンケン釣りガツオ」は、和歌山のプライドフィッシュになっています。

日本とハワイのつながりは、日本人の単なる人気の旅行先というだけではないのが、前回と併せてお読みいただけると、よくおわかりいただけると思います。

つづく

ハワイをもっと深く知る2冊

次回 サンフランシスコの誕生と1906年の大地震

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