サンフランシスコの誕生と1906年の大地震

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)をもとに、野村みちの日記に書かれた言葉を拾って、注記を広げながら110年前の世界の旅へ出かけましょう。

前回 1908年3月27日 ハワイ編3
(注6)アレキサンダーホテル
(注7)日本人漁師

サンフランシスコ 金門橋とフォーティナイナーズ

1908年3月28日、野村みちら世界一周会員を乗せた、パシフィック・メール社のモンゴリア号(注2)は、ハワイ・ホノルルの慌ただしい寄港ののち、太平洋航路を進み、4月3日、ゴールデンゲート海峡に位置するアメリカ西海岸の大都市サンフランシスコに到着したのでした。

当初はこの日の午前中に上陸予定だったようですが、許可がなかなか下りず、下船したのは、星がちらほらまたたく夜の8時になってから。さらに手荷物検査で時間を要し、当夜持ち出し可能になったのは、結局小荷物だけだったと不平を漏らしながら、みちたちは宿泊ホテルへ向かったのでした。

四月四日

フェアモントホテル(注8)はノブヒルという丘の頂きにそびえる九階建ての大ホテルです。客室は五百以上。壮麗華美で、まさにサンフランシスコ一の呼び名通りです。
サンフランシスコ大地震(注9)の折火災に遭ったものの、改修の結果かえって以前より美貌が増したと聞き、館内をくまなく見て歩きました。すると日本人の大工が三人ほど作業をしているのが見えました。向こうも目ざとく私を見つけ手招きするので、行ってみると、欄間などを用いた広い日本間を建築しているところでした。

※注、強調は筆者

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』神奈川新聞社
ゴールデンゲートブリッジ

みちが到着したサンフランシスコは、勝海舟や福沢諭吉らを乗せた1860年の咸臨丸の寄港以来、日本人のアメリカへの玄関口だった街でした。現在、客船でのサンフランシスコへのアプローチはゴールデンゲートブリッジをくぐるのが楽しみになっていますが、この大橋の建設が完成したのは1937年のことです。

ただし、みちの日記には、「ゴールデンゲート」の名は記されていて、すでにありました。

名付け親は、探検家であり軍人、カリフォルニア州選出の初代上院議員にして、共和党初の大統領候補となったジョン・C・フレモント(1813〜1890年)といわれています。アメリカ西部探検時にその海峡を前に、「ここは東洋との貿易の黄金の門だ」と回顧録に記したのがその始まり。イスタンブールの「金角湾」から取ったといいます。

フレモントがゴールデンゲートを目にしたのが1846年のことで、カリフォルニア・サクラメントで金鉱が発見されたのが1848年のことです。偶然の一致といえ、実に予言めいたネーミングでした。

ちなみにサンフランシスコといえば、金門橋ととともに、アメリカンフットボールチームのフォーティナイナーズ(49ers)の名も忘れられませんが、この名は、一攫千金を夢見てやってきたその鉱夫たち(野郎どものニュアンスに近いでしょうか)に由来します。

サンフランシスコの誕生

みちたちが二夜を過ごした「フェアモントホテル」は、今もサンフランシスコのノブヒルに華麗な姿をとどめています。

このホテルが完成したのは、世界一周会員らが到着する一年前の1907年のことでした。

サンフランシスコはアメリカの大都市だから、壮麗なホテルが建てられてもそう驚くにはあたらない、には違いありませんが、しかし60年前までは片田舎にある変哲もない小さな街にすぎなかったのです。そもそもアメリカの街ですらありませんでした。

1846年から48年まで続いた米墨戦争ののち、アメリカはメキシコから、サンフランシスコを有するカリフォルニアやニューメキシコ、ユタ、ネバダ州となる土地を獲得しました。カリフォルニア征服では、先に名前の出たジョン・C・フレモントが戦線に参加し、遠征隊を率いて北カリフォルニアを占領していきました。

カナダ・ユーコン準州のクロンダイクで金鉱が発見されると、サンフランシスコから多くの人々が向かいました(1897年)

サンフランシスコが大きく飛躍するきっかけになったのは、おわかりのとおり、1848年に始まったゴールドラッシュです。その基点になったのが、サンフランシスコであり、金鉱発見のニュースを聞きつけた世界中の人々がこの街に押し寄せました。1848年の人口はわずか850人でしたが、4年後には3万6151人にまで急増しました。

また西部開拓が行われると同時に、鉄道の敷設工事が盛んに行われ、多くの労働者を必要としました。1869年、西のサンフランシスコ近郊のサクラメントから始まったセントラル・パシフィック鉄道と、東のネブラスカ州カンザスシティ近郊オマハから始まったユニオン・パシフィック鉄道が結ばれ、これをアメリカ大陸横断鉄道の嚆矢としています。

そして、フォーティナイナーズのなかでゴールドラッシュでひと山当てた幸運な人物もいれば、鉱夫たちや労働者を相手に商売して儲けた人もいたでしょう。サンフランシスコ一帯はそうして人々が集まり、街が築かれていきました。

スタンフォードとリーバイ・ストラウス

ドイツ移民としてやってきた、リーバイ・ストラウスもそのひとりです。サンフランシスコで雑貨商を営んでいた彼は、金鉱夫の声に耳を傾け、キャンバス地の丈夫なワークパンツを商品化、のちにデニム地の、汚れの目立たないインディゴブルーのジーンズを作り上げました。1873年にはポケットの補強にリベットを使うアイデアを仕立て屋とともに思いつき、これが「リーバイス501」の誕生につながっていきます。

NHK『チコちゃんに叱られる!』の2020年2月の放送では、「なぜジーンズは青い?」という疑問を取り上げていました。当時、金鉱で働く鉱夫たちを悩ませていたのが、ヘビ。リーバイ・ストラウスは、ヘビが嫌がる成分を持つインディゴを用い、「ヘビを遠ざける」と宣伝してジーンズを売ったと紹介していました。

また、サンフランシスコ・ベイエリアには、1868年には有名なバークレー大学が、1891年にはそのライバルのスタンフォード大学が設立されています。

前者のカリフォルニア大学バークレー校は、1960年代の学生運動の発祥地、ヒッピームーヴメントを生んだ場所で、サンフランシスコのリベラルな気風を象徴する公立大学です。後者は、スティーブ・ジョブズが2005年の卒業式で〝Stay hungry, Stay hoorish〟の名スピーチを行ったことでも知られる大学。名のとおり、スタンフォード夫妻が15歳という若さで亡くなった我が子を悼み、「カリフォルニアの子は皆我が子とならん」と願い、巨万の富を投じて創設した私立大学です。

夫のリーランドは大学完成後、ほどなくして他界し、妻のジェーンは息子だけでなく夫も亡くしたその寂しさを埋めようと世界漫遊の旅に出て、野村みちが夫とともに経営する「サムライ商会」にも足を運んだことがあった、とみちは日記に書いています。

サンフランシスコのケーブルカーとアルカトラズ島

1873年、もうひとつのサンフランシスコ名物のケーブルカーがクレイストリートを初めて走行しました。サンフランシスコのケーブルカーは現役で活躍する世界最古の手動式ケーブルカーであり、アメリカの「動く国定歴史建造物」に指定されています。

1878年には、高台のノブヒルにもケーブルカーが登場します。その会社を開業したのは、リーランド・スタンフォードでした。リーランドもまたゴールドラッシュの時代に兄弟を追って、ニューヨークからサクラメントにやってきたひとりでした。そして、1862年にセントラル・パシフィック鉄道を、「ビッグ4」と呼ばれる他の3人の実業家とともに立ち上げて、大成功を収めたのでした。

サンフランシスコ湾を見下ろすノブヒルには、スタンフォードをはじめとするビッグ4の邸宅などが建設され、高級住宅街として発展。その一角にフェアモントホテルも産声を上げたのでした。以来、サンフランシスコを代表するホテルとして、今なお宿泊客を迎え入れています。

(注8)フェアモントホテル

フェアモントの名は当時から変わらず引き継がれていますが、実はオーナーは転々としています。

シャトー・フロントナック

フェアモントの名のついたホテルは現在、世界各地にありますが、歴史的なホテルとして名が知られる、ケベックシティの「シャトー・フロントナック」や「バンフスプリング」、「シャトー・モンテベロ」、オタワの「シャトー・ローリエ」など、カナダを旅したら泊まりたいホテルは、すべてフェアモントです。

これら由緒あるカナダのホテルは、「カナダ太平洋鉄道」から派生した「カナダ太平洋(CP)ホテル」が、19世紀後半から運営をし、また1980年代にかけて買って集めてきたホテルでした。1999年、このCPホテルがフェアモントグループを買収しました。

2001年、CPホテルの親会社であるカナダ太平洋鉄道の再編に伴い、フェアモントは分離独立。その後、フェアモントの名の下に、ニューヨークのプラザ、ロンドンのサボイ、上海の和平飯店が傘下に入ったり、かと思えば反対に、サウジアラビアのアルワリード・ピン・タラール王子やアメリカの不動産投資会社コロニー・キャピタルに買われたりして、統合再編を繰り返しながら、その規模を大きくしていきます。

2006年、フェアモントは、スイスホテル、ラッフルズホテルと統合され、新たに「フェアモント・ラッフルズ・ホテルズ・インターナショナル」が誕生しました。

2000年代以降、投資会社が表舞台に登場し、中東などの新たな地域の出資元が現れると、世界的なホテルチェーンは格好の投資対象になるようで、あっちにいったり、こっちとくっついたり、ほんとうにややこしいです。

そして2015年には、フランスを本拠とし、ソフィテルやノボテル、イビスなどヨーロッパでお馴染みのホテルを所有するアコーホテルズが、フェアモント・ラッフルズ・ホテルズ・インターナショナルを買収。2020年現在、フェアモントはその名を残しつつ、アコーホテルズ傘下にあります。

(注9)サンフランシスコ大地震

話を野村みちの時代に戻しましょう。

1906年、サンフランシスコ・ノブヒルに建設中だったフェアモントを大地震が襲います。しかし、みちが書いているとおり、火災が発生したものの、ビルは倒壊を免れました。

1907年当時のフェアモントの写真が見られます

それは最新の構造であったからか、幸運だったからか、両方なのでしょう。他方サンフランシスコの街そのものは壊滅的な被害を被りました。しかし、それは自然災害というよりは、人災が大きかったのだといいます。

サンフランシスコ北端に1994年まであったプレシディオ基地の指揮官、フレデリック・ファンストン准将が上層部からの命令がなかったにもかかわらず、「市当局を助けようとして」軍隊を派遣しました。サンフランシスコは、当時、組織的な労働争議が盛んに行われていた中心地でした。群衆の暴徒化を恐れた軍隊は、ミイラ取りがミイラになるように自らが暴徒化し、市民にむけて火を放ったのです。

それでなくとも、地震によって給水管が破壊されていて消化活動が行えなかったところに、軍隊がやってきて市民を追い払ったことで消火活動が遅れたり、彼らの目に暴徒と映った市民を追い払うのに建物を焼き払ったりしたといいます。さらに、防火壁を築くために、ものを爆破するダイナマイトを使用するのではなく、発火する傾向がある黒色火薬を使ったために新たな火事を発生させました。

その結果、サンフランシスコ市の半分は灰塵と化し、2万8000棟のビルが倒壊、人口のおよそ半数の20万人以上が家を失いました。

このサンフランシスコ大地震については、甚大な災害直後に、相互扶助的な共同体が現れる現象を「災害ユートピア」と名付けて、その概念を提唱したレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房)に詳しいです。

このサンフランシスコ大地震に対して、日本中で募金活動が行われ、24万6000ドル(現在の価値でおよそ19億円)の義援金が送られたといわれます。この金額は、アメリカに外国から寄せられた半分以上を占めていたとのこと。これには前年、東北を襲った凶作に対して、当地に暮らしていたアメリカ人の宣教師の呼びかけに応じてアメリカ本国で募金活動が行われ、50万円(やはり現在の価値で19億円程度)もの義援金が赤十字を通して届けられたことへの感謝の気持ちがあったからといわれます。

野村みちがサンフランシスコを訪れたのは、地震から2年後のことでしたが、まだ大地震の傷跡は残されたままでした。ホテル滞在中のみちの目に、地震の火災で焼け落ちた一軒の廃屋が映りました。ボーイに聞くと、それがスタンフォード夫人の居宅跡とわかりました。彼女は2回目の世界漫遊中にすでにハワイで亡くなった後でしたが、みちはこのように書き綴っています。

しかし今、目の前にその廃屋のようすを見ると、あらためて人生無常の感に打たれ、思わず涙があふれます。
そうはいえスタンフォード大学は氏の名声とともにあり、数多くの卒業生が排出されています。氏の名前や思いは幾百年、幾千年と永遠に絶えることはありますまい。

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』神奈川新聞社

つづく

次回 1907年金融恐慌と、日本人移民の排斥はいかにして起きたのか?

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