1907年金融恐慌と、日本人移民の排斥はいかにして起きたのか?

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)をもとに、野村みちの日記に書かれた言葉を拾って、注記を広げながら110年前の世界の旅へ出かけましょう。

前回 1908年4月4日 サンフランシスコ編1
(注8)フェアモントホテル
(注9)サンフランシスコ大地震

(注10)アメリカの不景気 1907年の金融恐慌 

フェアモントホテルで一夜を明かした野村みちら世界一周会員は、サンフランシスコ周辺の観光に出かけます。

日記の文中には「プレデシオの軍事基地」を訪ねたとありますが、前回ふれたプレシディオ軍事基地かと思われます。特別に基地内の砲台や営舎を見ることが許可されたそうです。そういえば、むかし、ショーン・コネリーとメグ・ライアンが出演していた『プレシディオの男たち』という映画がありましたね。

ゴールデン・ゲート・パークは1906年の大地震の後、
市民の避難所となり、軍により仮設テントが設置されました

それから、みちたちは、現在、美術館や植物園、日本庭園などがある広大なゴールデン・ゲート・パークに立ち寄り、午後にはフェリーに乗って近郊のオークランドへ。商工館や陳列館を覗いたあと、堂本氏なる日本人の花園を訪ね、本人と会話を交わします。

四月四日

堂本氏はカリフォルニア州における成功者の一人で、所有する土地は四十エーカー以上です。最近のアメリカの不景気(注10)について、そのごく一部を私にお話しくださいました。
「アメリカの不景気は多少回復したなどと言われているが、決してそんなことはありません。(中略)
目下北米は、どの業種においても労働者を新たに入れる余裕など到底ない不幸な状況に沈み込んでいます。日本人労働者は白人や中国人に勝る勤勉さによって、一般に歓迎されていますが、この不景気ではどうして雇うことができるでしょうか。
日本人学童の排斥事件(注11)などが起こったため、一般の日本人労働者も排斥されるかごとく言われるのは、アメリカの真相を理解していない者の流言に過ぎません。(略)」

※注、強調は筆者

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』神奈川新聞社

前回、1906年にサンフランシスコを襲った大地震について、注記でふれましたが、翌年、この大地震に端を発する景気減速がアメリカ経済に大打撃を与えたのでした。

アメリカの不況というと、多くの人が1929年の大恐慌を浮かべると思いますが、それに勝るとも劣らないといわれるのが、1907年の金融恐慌なのです。

大地震によって、サンフランシスコの街はおよそ半分を失いました。40万人以上が暮らし、造幣局の出張所が置かれるなど、アメリカ西部の金融センターを大地震が襲えば、経済に大きな影響を与えるのは必至です。

そしてこの時代、アメリカ西部の出来事は、もはやその周辺だけにとどまるものではありませんでした。今より情報が少ない分、余計に尾ひれがついたりすることもあるでしょう。ニューヨークだけではなく、ロンドンの証券取引所でも、売り注文が殺到し、株価は大幅に下落しました。当時、鉄道路線の開拓や沿線事業が盛んに行われていましたが、地震から2週間の間に鉄道会社は15パーセント以上、保険関連会社も15パーセントから30パーセントも株価を落としました。

さらに、大手の銅会社の株買い占め投機の失敗が明るみに出て、それをファイナンス面で支えていた信託会社に取り付け騒ぎが起きました。瞬く間にそのニュースは金融界を駆け巡り、パニックは連鎖し、数々の銀行や信託会社が営業停止に陥りました。

それを救ったのが、JP・モルガン商会のジョン・モルガンでした。ニューヨークの銀行の頭取らに資金調達を呼びかけて資金を投入し、取引市場を安定させるのに活躍しました。

1890年代、世界では中央銀行の設立が趨勢でしたが、アメリカでは頓挫したままでした。しかしこの1907年の恐慌を経験したことによって、その必要性が高まり、アメリカ版の中央銀行、すなわち、いまではおなじみの連邦準備制度理事会(FRB)が設立されるようになったのです。

それから100年ののち、さまざまな措置が講じられ、金融パニックはもう起こらないと考えられていました。しかし1980年代以降、金融規制が緩和されていくなか、2007年にサブプライム住宅ローン問題が発生し、金融恐慌が再び世界を襲ったのです。

2107年、もう、金融不安が繰り返されることはないでしょうか?

中国移民とゴールドラッシュ、大陸横断鉄道

前回、サンフランシスコの発展は、1848年のゴールドラッシュに始まったこと、さらに1869年に、カリフォルニア州サクラメントとネブラスカ州オマハが鉄道で結ばれ、アメリカ大陸を鉄道で横断できるようになったことが、それを後押ししたことを紹介しました。

ゴールドラッシュを聞きつけてやってきたのは、アメリカ人だけではなく、国内外を問わず、人々が押し寄せました。ジョン万次郎もそうですし、この時期、大量の中国人移民がアメリカの土を踏みました。

アメリカにはサンフランシスコやニューヨークなど全米にチャイナタウンがありますが、その由来が、当時やってきた華人なのです。

19世紀のアメリカと中国(清)、それぞれに関連する歴史を追ってみましょう。

中国アメリカ
1842年アヘン戦争で英国に敗れ、南京条約締結。
上海、広州など5港を開港する。
鎖国が解かれる
1848年サクラメントで金鉱を発見。
ゴールドラッシュが始まる
1851年1864年まで続く、太平天国の乱が始まる
1860年アロー戦争の結果、清は英仏と北京条約を
締結。中国人の渡航が解禁される
1863年・南北戦争のさなか、リンカーンが
奴隷解放宣言。
・西部開拓の鉄道建設を開始
1869年ユタ州プロモントリーで東西両方から
敷設が進められていた鉄道がつながる
1882年中国人排斥法可決

この年表をひもといていくと、アメリカ、中国の状況、その背景にある世界の状況がリンクし、華人の移民が生まれたことを語り始めます。

アヘン戦争に清が敗れたことを端緒に、国内は不安定化、太平天国の乱がそれに輪をかけます。その状況から逃れたい華人が数多くいました。また南京条約の締結によって、広州はそれまで持っていた海外貿易独占権を失い、茶葉の貿易を上海と分割することに。それに携わっていた運搬人夫や船頭など、およそ1万人が職を失ったといいます。

他方、1833年に英国では奴隷制度廃止法が成立し、植民地などで、それまで黒人奴隷が担わされていた労働を補填する必要が生じました。そこで目をつけたのが、インド人や中国人らアジア系の下層民だったのです。強制的な移民も数知れずあったに違いありませんが、職を求める下層民と、奴隷を失い安価な労働力を欲していた列強国の思惑が不幸にも結びつきました。

苦力(クーリー)貿易なるものが19世紀半ば以降起こり、中国人をはじめとするアジア系の下層民は契約労働者としてリクルートされ、海外へ渡りました。

アメリカにおいても、事情は同様です。鉱山で働く人夫として、また大陸鉄道の敷設工事に何万人もの中国人が雇用されました。彼らが、岩ばかりのシエラネバダ山脈やユタ砂漠を切り開いて、大陸横断鉄道の開通を成し遂げたのです。

中国人移民は増え続け、1870年代には、サンフランシスコの人口のおよそ9パーセントを華人が占めるまでになっていました。安価で働く中国人労働者が増えると、アメリカ人労働者が仕事を奪われてしまうのではないかと、次第に中国人にむける視線は厳しくなっていきます。「十字軍」などと称し中国人を襲撃する事件も発生し、労働組合も中国人労働者の排斥を訴えるようになります。議会もこの声に押され、1882年に中国人排斥法案が成立し、中国人移民は排除されるようになったのでした。

(注11)日本人学童の排斥事件 

その穴を埋めるように、農業や鉱業、漁業などに従事したのが、日本人移民です。

野村みちが日記に綴った堂本氏のことばにあるように、「日本人労働者は白人や中国人に勝る勤勉さによって」成功者も現れました。みちの日記にも名が登場する「ポテトキング」こと牛島謹爾氏のほかにも、「ライスキング」こと国府田敬三郎氏、「ガーリックキング」こと平崎清氏などです。彼らは刻苦勉励し、アメリカンドリームをつかみ取ったのです。

しかしアメリカ人にとって、日本人も中国人と同じ黄色人種。差別に偏見、成功者に対しての妬み、嫉みや、仕事を奪われるのではないかという不安もあったでしょう。排日感情は日増しに高まっていきました。

また、移民の多くは出稼ぎ者であって永住せずに帰国すること、日本人移民の本国への送金はアメリカの富の損出という見方や、現地で日本人だけのコミュニティを形成し、概してアメリカ人とふれあう機会が少ないのが不信感を生んだことなど、排日感情の背景にはさまざまな要因がありました。さらに、日露戦争に日本が勝利したことによって、日本人を脅威とする見方、黄禍論も背景にあり、アメリカ人の日本人へむけるまなざしは複雑なものでした。

1906年にサンフランシスコで大地震が発生し、日本から多額の義援金が送られたことは前回ご紹介しました。これがアメリカで報じられると、大きな感動を呼びましたが、その一方で、恩を仇で返すような事件が発生しました。

1907年、地震によって、サンフランシスコ市内の学校の半数が焼失。サンフランシスコ市は、アメリカ人の子どもと同じ学校に通わせないようにするため、日本人(わずか93人)と韓国人の学童を東洋人学校に分離して通学させる決定を下しました。

しかし、日本人が多数暮らすカリフォルニア州サンフランシスコと、そこから遠く離れたアメリカ政治の中心、セオドア・ルーズベルト大統領のいるワシントンとでは、日本人移民に対する温度差がありました。また日露戦争に勝利した日本を、必要以上に刺激したくない意向もアメリカ側に働き、対する日本政府も事をこれ以上大きくしたくなく、結果、日本はお得意?のアメリカへの移民を自ら制限する自主規制を行い、アメリカは日本人を排斥しないという「日米紳士協約」を1908年に結んで落着しました。

野村みちがサンフランシスコを訪れたのは、協約が結ばれて数カ月経った頃です。

日本人学童排斥事件は、当地の日本人社会にも大きな影を落としたに違いありません。反発もあったでしょう。それにもかかわらず、冒頭ご紹介したサンフランシスコの成功者のひとり、安田氏の「日本人学童の排斥事件などが起こったため、一般の日本人労働者も排斥されるかごとく言われるのは、アメリカの真相を理解していない者の流言に過ぎません」ということばは、アメリカを擁護しているように聞こえます。

推測するに、アメリカ人のなかにも、日本人を蔑視する人物もいれば、そうではないアメリカ人の存在も身近にいたのでしょう。また、アメリカ社会で成功をつかむには、アメリカ社会に受け入れられなければ達せられないことで、成功者になればなるほど、アメリカを理解しようとする、同化しようとする意識が働いたと考えられます。

日本人移民社会に浸透した安孫子久太郎の思想

その「意識」には、サンフランシスコの日本人移民社会の発展に大きく寄与した、安孫子久太郎の影響が働いていたようです。

安孫子久太郎は、1884年に渡米、カリフォルニア大学バークレー校に入学、1899年に『桑港日本新聞(サンフランシスコ・ジャパン・ヘラルド)』と『北米日報』を統合して『日米』という新聞を発刊したり、1902年には日本人移民の定住を促進するために、職業紹介などを行う日米勧業社を設立したりした起業家です。また、サンフランシスコの日本人クリスチャンのリーダーであり、1909年には津田梅子の妹、余奈子と結婚しました。

安孫子久太郎は、排日運動を解決するために、日本人移民に出稼ぎ意識を捨てて、永住することによって日本人の移民社会を支え、アメリカ社会に貢献することを説いたといいます。

野村みちは日本人移民も集まったサンフランシスコでの夕食会場で、サクラメントからやってきた日本人移民の話を日記に記しています。

四月五日

世間では、日本人が排斥されているなどと言われていますが、それは真相を知らない人間の言うことです。現在はもちろん将来においてもアメリカは日本人労働者を歓迎するはずです。(中略)
しかし、従来のように、わずかな貯金ができるや否や帰国してしまうようでは、到底大きな成功は望めません。(中略)貯蓄ができたら帰国するのではなく、土地を買うでしょう。次第に買い増し十年、十五年経てば、この地に骨を埋める覚悟もできるはず。そのくらいでなければどうして成功などできましょうや

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』神奈川新聞社

まるで安孫子久太郎が乗り移ったような、移民者のことばではありませんか。

みちはこの言葉を受け、アングロサクソンが発展したのは、故郷を捨て、あちこちに移住したからと聞いたことを思い出し、「ああ、本国の青年諸君よ」と、狭苦しい日本に執着し、嘆いてばかりいる日本人男子を愚かの極みと訴え、発破をかけます。

天は限りなく高く、地は広いのです。「人間到る所青山あり」、男子たるものこの心意気あってこそ成功できるのです……!

『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』

変わるものと、変わらないもの。

2020年の現在、米中関係は大きく変わりました。当時のような中国人、日本人排斥は見られないものの、黄禍論は形を変えて残っているでしょう。アメリカにおける黒人問題は相変わらずで、Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)は、これまでにない大きな黒人差別反対運動になりました。

日米紳士協約に見られる自主規制、移住先の暮らし・文化に寄せていこうという心性は、いまも変わらない日本人の特性のように思われ、年長者の若者への叱咤も変わらないようです。

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