『マーティン・エデン』のジャック・ロンドンと日本の関係

ジャック・ロンドンが1913年、グレン・エレンに建造したウルフハウス。完成直後に焼失した

連載「110年前の世界を旅する」では、『ある明治女性の世界一周日記ー日本初の海外団体旅行』(神奈川新聞社)をもとに、野村みちの日記に書かれた言葉を拾って、彼女が訪ねた地や当時の社会を探っていますが、サンフランシスコ編では1906年に発生した大地震とその後に起きた日本人学童排斥や日本人移民についてふれました。

ホーボーのトランプ、ジャック・ロンドン

このサンフランシスコ地震と日本人移民と両方にリンクする人物がいます。

9月18日から公開される映画『マーティン・エデン』の原作者であり、作家のジャック・ロンドン(1876〜1916年)、その人です。

ロンドンの代表作のひとつ、一匹灰色オオカミの生涯を描いた『白い牙』や、飼い犬がさまざまな体験を通して野生に目覚めていく『野生の呼び声』は翻訳も何度か新たにされ、アニメになったり、映画になったりしているので、その名前をどこかでお聞きになっているかもしれません。なかには、村上春樹の小説でその名を知り、読んでみたという方もいるでしょう。

サンフランシスコに生まれたロンドンは、貧しい少年時代を過ごし、幼い頃から農場で手伝いをしたり、新聞配達や缶詰工場で働いたりして、17歳のときにはアザラシ漁船に乗り込んで、小笠原諸島の父島や横浜にも2週間ほど滞在しています。18歳のときには、失業者のデモ行進に参加、そこから離れてニューヨークへ旅に出るも、バッファローで放浪罪で御用。ホーボー生活は終わりを迎え、ひと月の獄中暮らしを体験します。

自由を体現した「ホーボー」

「ホーボーは南北戦争後、アメリカ全土に鉄道網が敷かれようとしているなかで誕生した。
自由気ままな彼らの生き方は、自由へのアメリカ人の憧れと結びついて、コミックの主人公となるなどたちまちアメリカ文化に定着していった。(略)
ホーボーにはいくつかのタイプがあって、働きながら放浪するホーボー、社会からドロップアウトして放浪をつづけるトランプ、酒飲みの放浪者バム、犯罪を常習とするイェグなどに分けられている。
ジャック・ロンドンの場合は、この分類に従えばトランプに属する。」
(『ジャック・ロンドン放浪記』(解説・川本三郎)より)

27歳で『野生の呼び声』がヒット

ジャック・ロンドン

ホーボーの時代を経て社会主義にふれたロンドンは、『共産党宣言』を読んで感銘を受け、社会党に加入。20歳で猛勉強して、カリフォルニア大学バークレー校に入学するも、養父の死などもあり中退します。1897年、アラスカ州に接した現カナダ・ユーコン準州のクロンダイクで金鉱が発見されると、義兄とともにクロンダイクに渡りますが、壊血病にかかって翌年には帰国しました。

病いを癒したのち、働きながら創作活動を活発に行っていきます。24歳で最初の妻、ベスと結婚、25歳で長女を授かります。1903年、27歳で書いた『野生の呼び声』がヒットして、一躍時の人となり人気作家に。以来、1916年に40歳で亡くなるまで(モルヒネで服毒自殺?)、毎年のように小説や評論を発表していきます。

『野生の呼び声』以降のジャック・ロンドンのおもな作品(一部)

『海の狼』(1904年)
『試合ーボクシング小説集』(1905年)
『階級戦争』(1905年)
『白い牙』(1906年)
『ジャック・ロンドン放浪記』(1907年)
『マーティン・イーデン』(1909年)
『南海物語』(1911年)
『ジョン・バーリコーン』(1913年)
『月の谷』(1913年) ほか

1906年にはサンフランシスコ大地震リポートも

1906年には、ヘミングウェイやサリンジャー、フィッツジェラルドなど著名な作家が寄稿した雑誌『コリアーズ』(1888年〜1957年)の依頼を受け、サンフランシスコ大地震が起きてから3週間後に街に入り、当時の様子を後世に伝える貴重なリポートを記しています。

THE STORY OF AN EYEWITNESS: THE SAN FRANCISCO EARTHQUAKE
サンフランシスコ地震 目撃者の話

ジャック・ロンドンは、この大地震リポートのなかで、「サンフランシスコは、ふっとんだ。記憶と建物のへりだけを残して」と崩壊した街を歩き、揺れよりもひどい被害を及ぼした火災の様子なども細かく書き記しています。また、「サンフランシスコ誕生と1907年の大地震」でふれた「災害ユートピア」の状態にある人々の様子もこう描写しています。

「炎を前にして、その夜じゅう、家をなくした人々が逃げまどっていた。ある者は毛布を被り、またある者は寝床や身の回り品をまとめて担いでいた。時折、馬車や荷車に家財を積み込んで歩いている家族もいた。みな手に手にトランクを持ち、さらに乳母車、おもちゃ箱やゴーカートなどまで、荷物を積むのに使われていた。それでもみな礼儀正しさだけは失わずにいた。
サンフランシスコ史上、この恐怖の夜ほど市民が親切で礼儀正しかったことはなかった」

〝旅〟とともにあったジャック・ロンドンの生涯

ロンドンは、アザラシ漁船時代、ホーボー時代をはじめとして、カリフォルニアを拠点にしつつも、生涯にわたって〝旅〟とともにありました。

1902年には英国ロンドンのイーストエンドの貧民街を潜入取材、1904年に日露戦争が勃発すると、新聞特派員として来日しました。このときは外国人記者の従軍は許されず、ロシアのスパイを働いたかどで門司で逮捕、出所後は朝鮮半島に渡って北上するもソウルに連れ戻され、強制送還されます。また自ら設計した帆船スナーク号で南太平洋に航海に出て、ハワイやタヒチ、ゴーギャンが没したマルケサス諸島を旅しています(1907年)。

ロンドンは旅を通して、旅で得たものを自らの肥やしにして作品に結実させていった恵まれた作家のように思えます。二十歳過ぎの駆け出しの頃こそ、雑誌社に原稿を送ってもまったく相手にされませんでしたが(とはいえ、二十歳過ぎで原稿を書いてはバンバン送ってと、その早熟さったらありません!)、作家としての成功に結びついた『野生の呼び声』からして、アラスカ・クロンダイクでの体験をもとにして書かれました。

その後の創作活動についていも、金脈は〝旅〟の中に埋まっていました。

ロンドンはおよそ20数年の物書き人生のなかで、約20の小説、約200の短編、400を超えるノンフィクションを超える作品を残していますが、ホーボー時代(→『ジャック・ロンドン放浪記』)から、アラスカ・クロンダイク(→『野生の呼び声』などなど)、南太平洋(→『南海物語』などなど)と、旅に出たからこそ、ロンドンはこれだけの数の作品を残せたといえます。

それもルポだけでなく、フィクションに仕立てあげられるのが才能でしょうか。旅先で見聞したもののエッセンスのすくい上げが並外れているのでしょう。

映画化された『マーティン・イーデン』は、船乗りマーティンが〝階級〟の違う女性と出会って、彼女にひと目でひかれ、身振り手振りをマネしながら、その世界に仲間入りし、小説家を目指した青年の苦闘の物語。その先に彼が見たものは? といった風なお話です。

『ジョン・バーリコーン』と同じく、自伝的小説と紹介されるだけあって、船乗りが小説家を目指すって、ママ、ロンドンじゃないですか。そもそもジャック・ロンドンの生き様そのものが、20世紀初頭に描かれた、シビれる一編の物語のようなもので、見聞きしたものすべてが作品のネタであり、自らを切り売りして、駆け抜けて生きて死んだ、まぎれもなく「全身小説家」のひとりでした。

ジャック・ロンドンと日本の関係

ジャック・ロンドンの作品と旅がつながっていることは、その生涯を追えば、一目でわかりますが、忘れてならないのが、ロンドンは日本の土も踏んでいることです。

ロンドンには、1897年、若干21歳のときに(すなわち、17歳の日本滞在がもとになって)書いた、ゲイシャガールの悲劇の物語『おはる』もあれば、書き上げる前に亡くなってしまい、その後妻のチャーミアンが書き継いで完成させた、ハワイを舞台にした日本人女性が主人公の『東洋の眼』もあります。

ロンドンのほぼ最初期と最後の作品が「日本もの」なのです。

日露戦争の従軍から帰国後、反日の記事を掲載し黄禍論を先導、人種偏見を助長したとして、社会主義者から批判されたこともありましたが、ロンドンは日本と終始つながりを持ち、視線を注いでたようです。

スナーク号でハワイに乗り出したときには、ヒロで日本人のコックのワダや給仕人にナカタ(! まさか野方出身?)やトチギを雇い、南米旅行のお供にもナカタを同行させているほか、ロンドンが後半生を生きたサンフランシスコ郊外のグレン・エレンの自分の農園にナカタのほか、セキネやセラといった日本人を重用しました。

当時は、ハワイにも、サンフランシスコにも、数多くの日本人移民がいたので、勤勉な日本人を雇ったことは驚くに値せず、これだけで日本とのつながりというには言い過ぎですが、当時、カリフォルニア州ソノマ郡には「ブドウ王」と呼ばれる長沢鼎(かなえ)が住み暮らしていました。その長沢とロンドンには交流があり、ロンドンは彼と日本や農業について語り合い、武士道を学んだのではないか、というのが『ジャック・ロンドンと鹿児島ーその相互の影響関係』です。

長沢鼎かなえ 薩摩のサムライにして、カリフォルニアの「ブドウ王」

長沢鼎(1852年〜1934年)は、薩摩生まれ。13歳で薩摩藩の第一次英国留学生に最年少で選ばれ、18人の薩摩藩士とともに渡英。トーマス・グラバーの実家に身を寄せながら、学校に通いました。その後、多くの仲間が帰国するなか、アメリカの宗教家ハリスと出会い、ほかの5人とともに彼のいるニューヨーク州へ渡ります。そこでブドウ栽培やワイン醸造を学び、仲間5人皆が帰国していくなか、長沢はひとり残り、ハリスとともにカリフォルニア州に移住しました。ハリスはファウンテングローブ・ワイナリーを創立し、長沢はその下で、ワイン造りに熱心に取り組んだのです。

ハリス亡き後、ワイナリーを継いだ長沢は土地をさらに開拓、ブドウの品種改良を重ね、ビジネスを広げていきます。そして長沢のワインは全米、そしてヨーロッパへも輸出され、一時ソノマのワイン生産の90パーセントをファウンテングローブが占めるまでになりました。

1920年、その彼を禁酒法が襲います。しかし長沢は自費を投じてワイナリーを守り、禁酒法が解けた後、ようやくワイン出荷が再開された矢先に、彼はこの世を去りました。第二次世界大戦が始まり、日本人が敵国民になると、その名も次第に忘れ去られていきました。

ところが、1983年、故中曽根康弘首相とロン・ヤス時代を築いた元俳優、レーガン大統領が来日。11月11日、国会演説を行った際、カリフォルニアというアメリカの土地で、勤勉な日本人が能力を発揮して、輝かしい成功を収めた例として、長沢鼎の名を引き合いに出し、「ナガサワはカリフォルニアに学ぶためにやってきて、とどまり、我々の生活を豊かにしてくれた。日米両国はこのサムライから実業家に転身した彼に負うところが大きい」と述べました。

アメリカ大統領の、まさかのまるで名誉回復演説により、長沢鼎という人物が再び輝きだしたのです。

脱線して、長沢鼎の話になってしまいましたが、ホーボーの社会主義者、ジャック・ロンドンと無口な元薩摩藩士のサムライ、長沢鼎が、カリフォルニアの美しいブドウ畑に囲まれながら、はて、どんな会話を交わしたか。二人の姿を想像するだけでも楽しいではありませんか。

映画『マーティン・エデン』は、イタリアを舞台に繰り広げられますが、ストーリーの低音に武士道は流れているのか? などと余計な視点を入れながら見るのもまた楽しいかも、しれません。

カリフォルニア・ソノマのブドウ畑

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