プラナカン 東安アジアを動かす謎の民ーはしがき2

前回ふれた『プラナカン––東安アジアを動かす謎の民』(著・太田泰彦/日本経済新聞社) は、シンガポールに駐在していた日経新聞のボーン・上田記念国際記者賞受賞(2017年)の記者が、「プラナカン」を取材して、謎のヴェールに包まれたプラナカンなるものに迫りました。

15〜16世紀、明から清へと移り変わっていく時代、中国南部の福建省や広東省から海を渡って、マレーシアや現在のシンガポールに移り住んだ漢族の人々がいました。現地のマレー人を娶り、子どもが生まれ、彼らのコミュニティのなかでカップルが誕生し、また子どもが生まれ、プラナカン(その土地で生まれた子)社会と文化が形成されていきました。

シンガポールの初代首相を31年にわたって務めたリー・クアンユーもそのひとり、というエピソードから同書は始まります。

リー・クアンユーを追悼して ©Singapore Buses

しかし、このシンガポール建国の父はそう呼ばれることを拒否しました。シンガポール建国の理念である「多人種社会」を実現するため、彼は中華系、マレー系、インド系など人種同士の結束を訴え、またイギリスからの独立を主張するうえで、イギリスとの関係を希釈化するためにも(イギリスと組んでうまいことをやってきたプラナカンという特権的な立場を表に出したくなく)、その過去を封印したのです。

著者はプラナカンのアンティークを蒐集したシンガポールの私設美術館のオーナーや、マラッカのババ・ニョニャ・ヘリテージ博物館のオーナー、マラッカの通称、億万長者通りに昔ながらの屋敷を残す実業家に取材し、さらにプラナカンの糸を手繰りながらインドネシアへ、タイへ。

マラッカのババ・ニョニャ・ヘリテージ博物館  ©Tourism Malaysia

そしてタイで取材したプラナカンの曾祖父は、『王様と私』のモデルになった英語の家庭教師をラーマ四世に推薦した国王の側近であり、その子は、著者も知るASEANを設立した著名な外務大臣だったことがわかりました。

見えてくるのは、英・蘭と手を結んで財を成し活躍したプラナカンの姿です。もともと故郷を飛び出し、新天地を目指したのが彼らのルーツです。機を見るに敏の身のこなし、中国、マレー、欧州に接し生まれたハイブリッドな文化と高いセンスは、今を生きるプラナカンにも脈々と受け継がれています。雑貨や料理といったソフトな面のみが紹介されるプラナカンですが、東南アジア躍進の陰に彼らのハードで、スマートなパワーが働いていたことがあぶり出されていきます。

この一冊に出会ったことで、マレーシアやシンガポールを見る新たな視点を得ることができたのです。

つづく

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