シンガポール独立とペナン島の華人ーはしがき4

2020年4月下旬、コロナ禍のなかで、ネットブックショップの「旅の本屋 via」をオープンしました。本によって旅が広がり、深くなっていく、そんな経験を自身のマレーシア旅行を通して、お話します。その第4回目です。

マレーシアから独立したシンガポール、その背景

辛亥革命の指導者、孫文がペナン島のジョージタウンに滞在していたこと、華人コミュニティから清朝打倒のための資金を調達したことを書きました。

ペナン島の旧市街ジョージタウンを歩いていると、中国様式の寺院をはじめ中国っぽい建物が目につきました。あとで知ったことですが、ペナン島は中華系の人々が人口の5割を超えるのが特徴です。

アルメニア通りのヤップ・コンシー

マレーシアは名のとおり、マレー系の人々が6〜7割を占めます。他方、同じマレー半島でもその突端に位置するシンガポールではマレー系は2割に満たず、反対に中華系が7割を超えています。これには国の成り立ちがかかわっています。

1957年、マレー半島9州とペナン、マラッカを加えたマラヤ連邦はイギリスから独立を果たしました。1963年にはシンガポールとボルネオのサラワク州、サバ州が加わってマレーシア連邦を形成するも、2年後に、『プラナカン』のご紹介でふれた(「その2」)シンガポール州政府首相だったリー・クアンユーらの働きにより、シンガポールはマレーシアから分離・独立しました。

東南アジア ©United States Central Intelligence Agency

自身にとっては、物心つく頃には、マレーシアも、シンガポールも、〝普通〟に存在していましたが、実はまだ還暦も迎えていない若い国なのだとあらためて思わされます。

そのシンガポール分離・独立の背景には、マレー人と華人の対立がありました。大雑把な話と断っての話ですが、マレー人は土着の民族ですから歴史的に、またイギリスの植民地政策によって、農業に従事する人が中心でした。他方、東インド会社が入る前から渡ってきた海峡商人の華人はプラナカン社会を形成し、イギリス人と組んで特権階級と化して存在したり、19世紀半ばには新移民としてマレー半島の錫鉱山で働く鉱夫として華人が大量にやってきたり、20世紀初頭には天然ゴム園で働くインド人労働者が数多く移り住んだりして、マレーシアでは多民族社会が形作られていきます。

ペナン島のチョウラスタ・マーケット  ©Tourism Malasia

鉱夫も、ゴム園労働者も、英領下では相当に搾取はされていたでしょうが、マラヤ独立後など華人やインド人のなかには都市に出向き、自ら商業や貿易に携わる者も出てきたでしょう。そのなかで農村部に暮らすマレー人は依然として農業に従事し、経済格差は広がっていきました。自らの土地にいながら、外からやってきた人ばかりがいい目を見るのは、憤懣やる方なしでしょう。

これを是正しようと、独立したマレーシア中央政府はブミプトラ(土着の民)優遇政策を押し進めようとします(マレーシア政府は公的にはこの言葉は使用していないそうです)。これに対しリー・クアンユーのシンガポールは、〝マレーシア人〟として、華人も、マレー人も同じとする立場を取りました。こうしてマレーシア中央政府とシンガポール州政府は相容れることなく、別々の道を歩むことになったのです。

華人の歴史が滲むペナンの街並み

ペナンの話をしていましたが、話が横道にそれました。

申し上げたかったのは、そういう歴史的経緯でシンガポールでは華人が多数を占め、マレーシアではマレー人が多いなかで、ペナンは唯一華人が多い特異な州なのです。それが、ジョージタウンを歩いていると目に入る、中国式の寺院や同族同氏の祠堂、同郷の公会の多さにつながるのです。

ペナン・プラナカン・マンション 
鄭景貴と夫人の肖像画だったかと

「その3」でご紹介したとおり、ペナン・プラナカン・マンションも、華人所有の建物でした。その主人、鄭景貴(チュン・ケンキー)は広東省出身の客家を中心とする海山(ハイサン)会の頭目だった人物です。1880年代、マレー半島西海岸にあり、半島一の錫産地ペラにおいて、最も大きな鉱床を経営していました。採掘はすべて人力で行われ、数千人が働いていたそうです。その鉱夫たちは中国出身。当時から移民ビジネスとそのネットワークが確立されていて、チュンは同郷の人々をリクルートし、多数雇用しました。

またアルメニア通りにはヤップ・コンシー(叶公司)といわれる、福建省出身の葉一族の霊廟・祠堂があります。その近くには観光名所になっているクー・コンシー(邱公司)が。こちらは福建省アモイ出身の邱(クー)一族が建立しました。またチュリア通りとクイーン通りが交わる付近には、ガイドブックでは潮州会館と紹介される広東省東部の潮州を出自とする潮州人の霊廟があります。

クー・コンシー
潮州会館

客家に福建、潮州と、それぞれの出身者がそれぞれに集まって異国の地で相互扶助を行ったり、先に一旗揚げた親戚や同郷の者を頼って地方の田舎者が出てきてどんどん広がり、強化されていったのでしょう。日本にも県人会というものがありますが、それの比ではない、ネットワークのしなやかさ、強さと絆力を感じます。

公司、会党と呼ばれる同郷出身のグループは、秘密結社とも称され、文字どおり秘密だったかはともかく、表の稼業も、裏の稼業もさまざま行っていたようです。国にとらわれることなく、地縁、血縁を頼って生きていく華人の生き方、異国の地へほいっと出てしまう(出て行かざるをえない、食えない環境ゆえでしょうが)生き方にもひかれるものがあります。

つづく

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